カーゴニュース 2024年7月23日 第5261号
夕闇に駅馬車消ゆる薄暮かな 春樹
星野良三さんが亡くなられました。この句はジョン・ウエインが亡くなった時に角川春樹が詠んだ一種の追悼句です。4歳年上の星野さんは僕にとってジョン・ウエインのような人でした。楽しかった40年前頃のことを思い出しています。先行きはわからないがみんな仲間は(僕を含めて)明るい将来しか考えておられなかったと思います。
星野さんは明治大学体育会自動車部の出身です。後に監督もされました。体育会系の明るさと豪快さ、そして気弱で繊細なところもある人でした。星野さんは酒豪でした。夜、立川で会食をした時に「酒には酔ったことがない。飲んでも気分は変わらない」と言われるので、僕は「それなら何も高い金を出して酒を飲むことはないだろう。水でも飲んでいればよい」と言いました。
星野さんについてはいろいろ想い出があるけれど、一番は星野さんの叙勲のお祝いが帝国ホテルであった時です。明治大学のブラスバンドとチアリーダーを含めて応援団が参加したことです。大いに盛り上がり、最後に会場全体で「白雲なびく」の大合唱。僕の母方の祖父は戦前の明治大学出の裁判官です。明治大学はわが家系にとっても母校です。僕も大声で歌いました。楽しかった。ここには体の弱った石原慎太郎氏も来ていたがそんなことは目じゃない。
星野さんは会社を「多摩を、東京を、日本を代表するビッグビジネス」に育て上げられ、東京都トラック協会、全日本トラック協会の会長をされ、業界を代表する経営者になられたのですが、晩年の星野さんは楽しいエピソードだらけです。自動車部の出身でありながら70歳を前にして免許の返納をされ、五日市の自宅かち立川の会社に自転車で通っておられました。誰かが言っていましたが「星野さんが自転車で通勤する時、後ろを黒塗りの車がついて走っていた」とか「星野さんは何十万円もするBMだのプジョーの自転車を何台も持っておられるらしい」とか、本当かどうかは知りません。
ある時、星野さんと原島望泰さんと3人で話したことがあります。当時、新しい時代に向けて社名を変えるのが流行っていました。仲間内でも「日本ロジテム」とか「ヒューテックノオリン」が生まれていました。二人は「われわれは日本語の地名を残そう」と言っておられました。お二人とも創業の地への思いが強かったのでしょう。それが「カンダホールディングス」であり「多摩ホールディングス」です。
カンダ(神田)は江戸時代、江戸の文化の中心地です。大体、昔は江戸っ子と言えば山王権現と神田明神の氏子だけを言ったそうですし、多摩は江戸ができるずっと前の奈良時代から武蔵の国の中心で府中があり、国分寺がある。由緒正しい。誇り高い人々です。江戸など新参者です。戦前、日本の輸出の半分が絹でした。その絹の最大の集散地が八王子です。
僕が小倉昌男さんの本を書こうと思って星野さんに話を聞きに行った時、会長室はコンピュータだのプリンターが場所を占領しており、デスクの上は写真が山ほどありました。星野さんはカメラもお好きだったようです。壁に石原裕次郎の等身大のパネルが飾ってありました。星野さんは長身だから慎太郎だの裕次郎と会っても見上げることなく、話すことができたのでしょう。そのこともあって星野さんは全ト協の会長時代、その前の中西英一郎さんもそうですが、政治家や官僚たちと対等に渡り合えたのだと思います。貫禄です。星野さんの会社の人たちとゴルフをしたのですが、何人もがバックティーから打っていました。驚きました。多摩っ子たちのすごさです。星野さんからは楽しい思い出だけをいただきました。ご冥福をお祈りします。
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